バッハの生涯をわかりやすく解説!音楽の父と呼ばれる理由・代表曲も紹介

音楽の父・バッハの生涯を簡単に解説 音楽家について

クラシック音楽の巨匠として知られる「バッハ」。学生時代の音楽の授業でも名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

本記事では、別名「音楽の父」とも称されるバッハの生涯を簡単に、初心者にもわかりやすく紹介します。

バッハって誰?

音楽の父・バッハとは?

「音楽の父」と称されるヨハン・セバスチャン・バッハは、ドイツの偉大な音楽家として有名。

実は「音楽の父」と言われるには、彼が亡くなってからしばらく経ってからのことでした。

当時バッハは、先祖代々続く音楽家の家系を忠実に引き継ぎ、一族の後継者・子孫・教会に集う人々のための教材や音楽を作っていました。

いわゆる「普通の音楽家」として見られていた影響もあり、彼が亡くなった後はすぐに忘れ去られてしまっていたとか。

そんなバッハが「音楽の父」とまで呼ばれるようになったきっかけは、ドイツの音楽家・メンデルスゾーンによるバッハの作品「マタイ受難曲」の復活上演が関係しています。

復活上演を機に、バッハの音楽が多方面で登場することになり、作品の魅力や彼の才能が評価されるようになったそうです。

バッハの基本情報

名前ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)
生まれた年と場所1685年3月31日、ドイツ・アイゼナハ
亡くなった年1750年(65歳)
職業作曲家、オルガン奏者、教育者

バッハ家は16世紀後半から18世紀にかけて、代々チューリンゲン地方で音楽家を輩出し続けた音楽家の家系。

ドイツ中央部に位置するエアフルトでは、「バッハ」といえば音楽家のことを指す、と評された時代さえあったようです。

*クラナレ豆知識ちなみに日本では「セバスティアン」と記載される場合がほとんどですが、ドイツ語発音では濁音の「ゼバスティアン」です。

なぜならドイツ語の「S」は、単語の最初や母音の前では英語の「Z」に似た「ズ」の音になることがあるから。

ヨーロッパで広く見られる男性の名前でもあり、英語で「Sebastian」(セバスチャン、セバスティアン)とも表記されます。

日本で表記されるほとんどが英語発音なのは、明治時代以降、西洋音楽を多く「英語経由」で導入したことが影響した可能性が考えられますね。

子ども時代と若いころ

バッハは1685年、ドイツのアイゼナハという町で生まれました。家族の多くが音楽家で、父も叔父も町で活躍する演奏家だったそうです。

幼い頃から自然と音楽に囲まれていたバッハは、家では楽器の演奏や歌声が絶えない日々を過ごしていたとか。

そんなバッハは、小さなうちからリコーダーやヴァイオリンなどに触れる機会を得ます。まさに「音楽一家」で育ったことが、のちの大作曲家バッハの原点となりました。

両親を早くに亡くし、兄に育てられる

9歳~10歳という幼いうちに両親を亡くしたバッハは、父の従兄であるヨハン・クリストフ・バッハに引き取られ育てられることになりました。

彼もまた音楽家で、オーアドルフの教会オルガニストとして働いていたそうです。バッハはヨハン・クリストフのそばで多くのことを学ぶことができたのではないでしょうか。

特に楽譜を読んだり、和声を理解したりする力や、クラヴィーア演奏の基礎などは、この時期に培われたと考えられています。

*クラナレ豆知識ヨハン・クリストフの師匠は、実は「カノン」で有名な「ヨハン・パッヘルベル」!

そして現代でも広く知られる「パッヘルベルのカノン」は、彼が生涯に書いた唯一のカノンでした。

パッヘルベルの音楽は、南ドイツの音楽家からイタリア、フランスなどの作曲家から影響を受けていたとされています。

若いころからオルガン奏者として才能を発揮

10歳の頃にリュツェウムのラテン語学校に入学すると、複数の語学を学んだほか、合唱隊に所属し、各地で合唱を歌ったバッハ。

学校で優秀な成績を収めたため、招待生制度の恩恵を受けた記録もあるそうです。

そして十代のバッハは、すでに「天才少年」と呼ばれるほどのオルガン奏者として知られていました。

わずか15歳の頃には教会や宮廷で演奏する機会を得て、その腕前は大人の演奏家に引けを取らなかったと伝えられています。

演奏だけでなく、音を即興的に組み合わせて新しい旋律を生み出す力にも優れ、周囲から高い評価を受けていました。

バッハの音楽の才能と演奏・作曲スキル

幼少期から青年期にかけてのバッハは、驚くべきスピードで音楽の基礎を身につけていきました。彼が身につけたスキルを整理すると以下のようになります。

分野習得した内容
演奏オルガン、ヴァイオリン、鍵盤楽器全般
作曲簡単な旋律から複雑な合唱曲まで
理論和声、対位法、楽典の理解など
表現即興演奏の力、感情豊かな表現力

このように、若いころから幅広い技術を自らのものとし、後に数々の名曲を生み出す基盤を築いたと言われています。

バッハの仕事と音楽

1703年3月から9月までの半年間、ヨハン・エルンスト公の小さな宮廷楽団に就職したバッハ。

当時18歳ながら、ヴァイオリンやヴィオラ、チェンバロなどに加え、代役でオルガン演奏もこなしたそうです。

そんなバッハが作曲した中で、特に有名な曲は以下の通り。

トッカータとフーガ ニ短調

G線上のアリア

平均律クラヴィーア曲集

マタイ受難曲

教会音楽家としての仕事(カントルとして)

バッハはライプツィヒで聖トーマス教会のトーマスカントル(音楽監督)に就き、礼拝のための教会カンタータを中心に宗教音楽を大量に作曲しました。

就任後の最初の2〜3年は、日曜や祝祭日の礼拝に合わせてほぼ毎週新作を供給したとか。最終的に200曲超の教会カンタータが現存しています。

こうした不断の制作が、のちの様式の土台になりました。

宮廷音楽家時代(ケーテン)

1717年からケーテンの宮廷楽長として仕え、礼拝音楽の制約が少ない環境で器楽作品に集中的に取り組みました。

合奏協奏曲や組曲、鍵盤曲が次々と生まれ、なかでも『ブランデンブルク協奏曲』は1721年に完成し、ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒへ献呈された代表作です。合奏と独奏の対話性がこの時期の特色です。

ライプツィヒ時代(最も有名な時期)

1723年にトーマスカントルへ就任し、市内主要教会の礼拝音楽を統括。ここで多数のカンタータに加え、『ヨハネ受難曲』(1724年)や『マタイ受難曲』(1727年・聖トーマス教会での最古の確証公演)といった大作を完成させました。緻密な対位法と劇的表現が結実し、創作が最も充実した時期と評価されます。

バッハの家族と晩年

ヨハン・セバスチャン・バッハは、二度の結婚を経て生涯に20人の子どもをもうけました。

しかし晩年には視力が急速に衰え、1749年ごろから眼の病気を患ってしまいます。1750年には3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けたそうです。

そして2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療などは、高齢なバッハの体力を奪い続けていきます。

病床に伏したバッハは、1750年7月28日午後8時40分、当時65歳でライプツィヒにてこの世を去りました。

バッハが今も愛される理由

バッハの音楽が今なお愛され続ける理由には、以下のような点があります。

音楽の基礎づくり和声/対位法など現代音楽理論の土台を築いた
教育素材としての有用性技術・理論の学習に最適な教材(インヴェンション、平均律など)
演奏され続ける普遍性コンサート、学校、メディアなど、多様な場で長く演奏・使用されている楽曲群

バッハの楽曲の高度な構造と深い感情性は、技術的な挑戦だけでなく心に響く表現を兼ね備えた稀有な作品です。そのため、時代や文化を問わず、多くの人に支持されているのでしょう。

まとめ:バッハは現代音楽理論の礎を築いた存在

バッハは、ドイツの小さな町に生まれ、教会や宮廷で働きながら数多くの名曲を残しました。

一度は忘れられそうな存在でしたが、今では「音楽の父」と呼ばれるほど影響力のある存在に。

クラシック音楽の基礎を築いた偉大な作曲家として、世界中で親しまれています。

まずは一曲、バッハの音楽を聴いてみることから始めてみましょう。